音の葉

音楽を聴いて感じたこと

Alcachofa - Ricardo Villalobos

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"このまま止まらないでいたい究極のミニマリズム。本能に抗えない、原子的な猿にまで退化寸前のドラッグミュージック"

 

まず最初にこのブログは僕個人の音楽的ブームや流行りみたいなものが分かりやすくリアルタイムで反映されるブログだ。世の中でいう大名盤に今一度フォーカスを当てて、レビュー形式にして記事にするのもアリなのだが、あとで見返してみたときに、この時期はこんなのに没頭してたなぁと振り返れる一つの記録としての役割を果たせればなと感じるのだ。メジャーな名盤レビューはネットの海にありふれているわけで、少しニッチなジャンルにも目を向けてみたい。というわけで今回はクラブミュージックのマスターピースをひとつ。

 

リカルド・ヴィラロボスはチリ出身のDJだ。彼はミニマルテクノ、マイクロハウスと呼ばれるジャンルの発展に大きく貢献し、90年代のダンスフロアの一つの在り方を提示したパイオニア的存在である。ちなみにこのアルバムは彼の記念すべき一枚目のオリジナルアルバムにして、クラブミュージック系専門サイトResident Advisorの2000年代のベストアルバムランキングにて、ダフト・パンクやアヴァランチーズを抑えて見事一位に輝いている。

 

ミニマルとは必要最小限という意味を持つ言葉だ。彼の音源を聴いてみると決して派手ではなく、音数もたしかに必要最小限。僕も最初は目立ったキャッチーさも展開もなくひたすら同じような音を繰り返すこの世界観に理解が追いついていなかった。しかし逆の発想をしてみればさほど難しいことではなかった。早く次を聴きたいという意識ではなく、ずっとこのまま終わってほしくないという欲求が湧いてきたのだ。反復する世界は病的なまでの中毒性を僕に与えてくれたのだ。

 

ねちっこいビートを主軸に置き、リズムがブレることなく何度も反復するシンセだったり、効果音が行ったり来たりしながらあっという間におおよそ9分間あるトラックは姿を変えていく。一つ一つの曲はストーリーを紡ぐように、一定の流れを作り出している。それらは増幅していき、僕らの体内のリズムと同期を始める。余計なものは必要ないのだ。原子的なビートが一つあれば、ちょくちょく顔をのぞかせるメロディやエフェクトがアドレナリンの分泌を手伝い、ほんの少し揺らしていた身体が、気付けばダンスを止められなくなっている。

 

つらつらと個人的な主観でアバウトな感想をひと通り書いたが、このアルバムに関しては聴いてもらうほうがずっと早い。一つ保証できることがあるとすれば、このアルバム及びミニマルテクノはハマる人はとことんハマり、中毒性は数ある音楽の中でも最上級のものだ。この手の音楽は感覚的なほうがいい、歌詞もないし、身体を委ねるだけでいい。考えることを放棄して原子的な感覚を取り戻させてくれる素晴らしいエンターテイメントだ。

 

何点か伝えたいことがある。このアルバムはおそらくストリーミング配信してない。現物も国内で見ることはほぼなく、かなりレアなものになっているのでYouTubeで聴くかAmazonでも少し高いが買うことはできる。多くの人に聴いてほしい音楽なのでぜひ実践してみてほしい。それと再生環境が整っていれば、低音をマックスにして聴くとぶっ飛ぶような快楽を得られるのでこちらの方法も是非。

 

これ以上余計な解説はいらないかもしれない。ただ確実に言えるのはこの一枚に封じ込められているのは今まで出会ったこともない至高のダンスミュージック、真にこのアルバムの中毒性に気づけたときには新たな音楽の楽しみ方と出会えるということだ。お酒を片手にミニマルな世界へと旅立ってみてはどうだろう。

 

Loveless - My Bloody Valentine

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"90'sオルタナに突如産み落とされた突然変異態。誕生と破滅、自らをも凍てつかせる氷河期"

 

音楽を聴く耳というのはだんだん慣れてくるもので、例えば既存のロックや同じ類のバンドを聴いてても、それは単純にカッコいいという感情が横切るだけになってくるという現象は長年の音楽リスナーであればありがちなパターンだろう。かつてのロックバンドの模倣や、それらの再解釈という表現で一つのジャンルにおいて同時多発的にブレイクしたバンドはこれまでにも数多い。実際に90年代にニルヴァーナを中心に旋風を巻き起こしたグランジなんかはポストパンクやハードロックの影響が色濃くサウンドに反映されたものであった。しかし全くの新しいサウンドとして、マイブラの記念すべき2枚目はそんなオルタナ吹き荒れる90年代に、巨大な風穴を空けてしまった。のちにシューゲイザーと名付けられるオルタナの新境地が芽吹くのである。

 

シューゲイザーとはサウンドでいえばギターに猛烈なディストーション、ボーカルには猛烈なリバーブをかけた方法論である。これらのエフェクトにより、ギターは全身を覆い尽くすような轟音を発しながらも、ボーカルは言語を聴き取れないレベルの残響感を演出する。一見すると相反するこれらの音は地に足がつかないような感覚を僕たちに与え、そこから覚える幽玄さは一種の酩酊感を感じずにはいられない。

 

一言でこのアルバムを形容するならば脳天に雷が落ちたような衝撃。音楽というルールブックがあるとすれば、それをバラバラに引き裂いてからまた寄せ集めるといったロックの再構築。幾度もの破滅と再生の繰り返しで誕生した、かつてとは全く別の次元からのニュークリーチャー。音楽版、未知との遭遇とはこのことだ。この名盤をめぐる伝説的なエピソードは数多く存在する。このアルバムは19ヶ所のスタジオで何回も多重録音され、その費用は27万ポンドを超えクリエイション・レコーズを倒産寸前に追い込んだ。ケヴィン・シールズの尋常ではない音作りのこだわりがうかがえる。

 

その音の異端さは実際にライブを体感すればわかる。僕は2018年の豊洲PITでの単独公演とソニックマニアで2回観ている。まず彼らのライブは始まる前に観客に耳栓を配布する。そしてステージには明らかにそんなに使わんだろと思わせるギターの本数、軽く10本はある。ステージを目に焼き付けながらその轟音っぷりを肌で体感したい僕はあえて耳栓を付けずに待っていた。ライブが始まるとドラムのコルムがバスドラを叩いただけでも心臓は飛び跳ね、単純な音のデカさについ身体がビクッとした。これだけでまず普通のライブじゃないことが実感できた。ケヴィンが弦をひとたび弾けば、耳の隅から隅まで純度100パーセントのマイブラサウンドで覆い尽くされ、ワンフレーズだけでもその存在の圧倒さ、歴史的瞬間を生で観れているというような非現実的感覚が押し寄せてくる。そして何よりサウンド面で驚いたのは、音源ではギターの轟音が7割くらい持っていってる曲の数々は、音源では鳴りを潜めていたベースとドラムのライブならではの強烈な音圧と張り合っていたのだ。リズム隊は極めてパンキッシュに自らを振り乱し、ケヴィンとビリンダは轟音とは対照的に静かに佇む。"静と動"の対比があのサウンドの核を生み出していると思うと、彼らは完璧なバランスで成り立っているのだと改めて感じずにはいられなかった。

 

マイブラはある意味インストゥルメンタル的なバンドであると言える。彼らの声は津波のように荒れ狂うノイズの嵐を前にすれば、明らかにかき消える寸前だ。しかしそこから儚げに零れるケヴィン・シールズとビリンダ・ブッチャーによって織り成される甘美な男女混声。まるで僕たちがノイズの大海原に呑まれ、呼吸をも封じられた感覚を覚える。これだけ音を主体的にした彼らにメッセージなど必要あるのだろうか。実際、マイブラの国内盤を買い集めても歌詞の対訳はアーティストの意向で掲載していないと書かれていることが多い。彼らにとって声は世界観構築のための音の一部にすぎず、極めて内省的なその美学はシューゲイザーの今日の在り方を決定づける指標になってしまったのだ。

 

この記事を機にマイブラにのめり込んだ人、またマイブラを好きでまだ観れてない人は是非ともライブを体感していただきたいと思う筆者でした。

というか今回の記事の半分はライブレビューになってしまった気がしなくもないが...

 

 

 

 

 

Since I Left You - The Avalanches

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"泡のように弾けては儚くも過ぎ去っていくいつまでも終わりたくないサマーバケーション。極彩色の長大サンプリングオーケストラ"

 

太陽がやんわりと照り始め、やがてギラギラと突き刺さんばかりの光線に変貌していく。誰もが夏休みは永遠に終わってほしくないと無垢な少年少女のように、幼子の頃に帰れる。夏というのは1年を通して最も記憶に焼きつくトロピカルな幻想であろう。このアヴァランチーズの1枚はそんな刹那へと瞬時に引き戻してくれる極上の名盤なのだ。

ハッキリ言おう、アヴァランチーズを聴かずして夏を過ごすなんて、ホントにもったいない。

 

アヴァランチーズはオーストラリア出身のサンプリング集団である。サンプリング集団という言葉の響きから薄々感づく人も多いだろうが、彼らは完全なる変態集団だ。当初メンバーは6人いたのだが、他の4人は途方も無いトラックメイキングに完全燃焼してしまったのか脱退。現時点でのメンバーはロビー・チェイターとトニー・ディ・ブラシの2人だけになってしまった。このアヴァランチーズだが、2年前に突如実に16年ぶりの新作を発表し、コアな音楽オタクたちをざわつかせた。さらには翌年のフジロック2017の出演、今年に入ってからも渋谷VISIONでのDJセットでの来日、フジロック2018にも深夜の出演が決まるなど16年間の空白を取り戻すかのようにここ日本においても精力的にパーティーサウンドを撒き散らしている。当時は知らなかった人もこの復活を機に知った人も多いのではないだろうか。知る人ぞ知る存在であった彼らがますます現代においてファン層を拡大していくさまを見ていると、現在進行形で夏の代名詞をかっさらうというくらいの勢いだ。

 

この問題のデビューアルバムはなんと3500枚以上のレコードから900曲以上の曲の部分部分をかいつまんで繋ぎ合わせたのみで構成されている。果てしなく膨大な時間をかけて作られ、既存のジャンルすら飛び越えて、これだけの純然たるポップさと圧倒的クオリティで世に解き放ってしまったら話題にならない方がおかしいだろう。2000年という一つの時代の節目に、誰もが体験したことのない新たな音楽の到来を告げた記念碑的名盤なのだ。それからというもの何年かに何度かはアヴァランチーズの新作制作中というウワサがちらほらと飛び交うのだが、ハッキリとした確証もなく、セックス・ピストルズと同じように1枚で後世に巨大な爪痕を残した伝説の存在と思われていた。しかし、誰もが待ち望んだ16年ぶりの復活を果たし、再び世界中の注目を浴びる。当然この大名盤も息を吹き返すようにあらゆる音楽リスナーを巻き込み始めるのだ。

 

煌びやかなアコギの旋律で太陽が昇るようにこのアルバムは大名曲「Since I Left You」で幕を開ける。50〜60年代あたりのソウル歌手を思わせる伸びやかな女性の声が聴き手の耳を安らぎで覆い尽くす。そこへ潮風が磯の香りを運んでくるかのように、サンプリングコラージュの一粒一粒が黄金比率で歌声ととろけるように融合を果たす。夏が主役のロードムービーのオープニングは、季節の到来とともに高らかに開幕宣言をする。そこから先は完璧な流れで1つの波にさまざまなサウンドが乗っかりながら、緩やかかつダンサブルにサンプリングオーケストラが鳴らされる。その様はいつまでも終わらないサマーバケーションを思わせる。もはやあらゆる音楽のコラージュ大作なので、ジャンルなんてものは無意味なのだが特徴を言ってしまえば、根本にダンスミュージック、さらにはネオサイケデリア、ヒップホップ、エレクトロサウンドに近いだろう。はっきりとした実態を持たないサウンドであることに変わりはないが、その時その時の聴き方によってあらゆる側面が見え隠れするカメレオンのような変貌性、なんでもありのごちゃ混ぜブラックボックスとでも形容できるだろう。秒単位でサウンドコラージュを施し、それらの元ネタは50年代からのソウルシンガー、ラッパー、フルートなどが混じるオーガニックサウンド、さらにはオーケストラ、クラシック、古典ジャズetc...から成る。その全てを解剖することは到底不可能だが、これだけの曲を細かく切り刻み、編集しながらも決して散漫な印象は与えず、むしろ一本の映画を観させられているかのような一貫したテーマ性を見出しているのには誰もが賞賛をするところであろう。一枚通して聴けば分かるがノンストップでこれらの曲は繋ぎ合っているため実質「Since I Left You」の名を借りた一つのアートとして結実するのだ。

 

このアルバムはとんでもない音楽知識と突出したセンスが生み出した、音楽の未来、新たな姿を今よりも18年も前に提示しているのだ。今年の夏は今聴いても新鮮味溢れるワンダーランドに飛び込んでみてはどうだろう。

 

 

 

 

Elephant Shoe - Arab Strap

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"目覚めることさえ望まない、時が止まったような永遠の錯覚。ベッドルームミュージックの最高峰"

 

この1枚を部屋のCDプレーヤーに入れた瞬間、時間という概念の干渉を許さないスロウで怠惰な空間が形成される。それこそ真夜中に聴いて世界観に浸る分には何の問題もないのだが、これを例えば晴れた日の朝なんかに聴いてしまうと、やるべきことなんてどうでもよくなって、ただただ身体を横たえるだけの置物と化してしまう。それほどの魔力がこの1枚には秘められている。実際、僕はこのアルバムのおかげで何度も学校に遅刻しかけている。冬場のベッドから離れられないように、とてつもない吸引力が無抵抗な身体に働きかけてくるのだ。

 

さてこのアラブ・ストラップだが、彼らはグラスゴー出身の2人組から成るスロウコアユニットである。スロウコアというジャンルに聞き馴染みのない人もいると思うので説明をすると、文字通りスロウなテンポでクリーンサウンドのギターがメインとされている。そこから生み出される情景は、さながらどこか遠い異国の風景、この世とあの世の境界線、永遠に続くのではないのかと思わせる夢の中の世界といった妄想を駆り立てる。

外部の喧騒とはかけ離れた静謐かつ耽美な世界へ誘われてしまうのだから、部屋のベッドで何も考えずぼーっと宙を見つめてこの音が流れている空間に身を委ねるのがシンプルに最も効果的な聴き方だと僕は思う。というかもはや聴くという感覚すら、意識に置かずに生活の音として捉えて聴いてしまう。とても外で聴くような音楽ではない。先ほども書いたが外部の喧騒にかき消されてしまってはこのアルバムの意味がなくなってしまうからだ。

 

極端に音数を減らし琴線にふれるメロディを奏でるギター、テクノやトリップホップの気配をも感じさせる無機質なドラム、それらに呼応し独り言でも囁くかのようにひたすらポエトリーリーディング風に語りかけてくるボーカル。サウンドの主な構成要素は鬱だったり怠惰という一貫した感情で塗りつぶされてるようにも思える。人によってはこのサウンドを不気味だと評する人もいるかもしれないが、ダウナーでどこまでも底の知れないぬかるみに足元を掬われたようにずぶずぶと沈んでいき、多幸感とも甘美感とも異なる負の感情によって生じる一種の陶酔感が自身の心の中を渦巻く。先ほどの例を簡潔に言ってしまえば、毎日が夏休み、それもただ扇風機をつけっぱなしにしながらただベッドで横たわるあの感覚が呼び起こされる。世間の喧騒から解放されたとてつもなくパーソナルな空間は"無"という感情意識に支配され、ときにこのアルバムのサウンドの存在すら耳から遠ざかる瞬間があるのだが、またときに心の隙間に入り込む瞬間というのも確かに存在し、自身の潜在意識に波紋のように共鳴するのだ。これはブライアン・イーノが提唱したアンビエントミュージックの在り方に極めて近い。私たちの生活に自然に馴染み、聴くこともできるし聴き流すこともできる。自由気ままに吹き抜ける一陣の風のように、こういった自然的な事象はとても自分の感情のみでコントロールできるシチュエーションではないが、この1枚のおかげでそんなシチュエーションが実現できてしまう。別の世界に連れ去ってくれる感覚とでも言った方が伝わりやすいかもしれない。

 

無限大に広がる心地よさと上質なまどろみを身体に共鳴させよう、このジャケットの少女のように。怠惰の世界へ誘う悪魔の力を借りて、どんな物音も届かぬ深淵世界への扉は目の前にある。

The Colour and the Shapes - Foo Fighters

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"デイヴ・グロール覚醒!ニルヴァーナ以降の新たな伝説の始まり"

 

今回紹介するのはアメリカで国民的人気を誇るロックバンド、フー・ファイターズ。ファンからはフーファイと呼ばれているので以降、この略称で書き進めることにする。そんなフーファイの大名盤である2枚目だ。前回紹介した「Kid A」が暗い名盤ならばこちらは眩いばかりのギラギラとした明るい名盤といえるだろう。

 

フーファイは1994年に活動を開始する。このバンドをキャリアを振り返る上で切っても切り離せないバンドの存在がある。90年代の音楽シーンにあまりにも大きすぎる影響を与えたバンド、ニルヴァーナである。

 

ニルヴァーナのVo.であるカート・コバーンは「Nevermind」によって大成功を手にするも、純粋に音楽を楽しみたいという感情と、世界的なブレイクでキャッチーな曲ばかり求められる圧迫感のある状況での狭間で揺れて精神的に疲弊しきっていた。限界をむかえていたカートは1994年にショットガンで頭を撃ち抜くという衝撃的な最期を迎える。

 

カートの自殺のあと、Dr.であったデイヴ・グロールは個人的に書き留めてあった数々の曲を引っさげレコーディングを開始する。当初はバンドというよりはデイヴのソロプロジェクトという意味合いが大きく、メンバーも一定せずこの「The Colour and the Shapes」もデイヴが全ての楽器を担当したものが収録されている。

 

ニルヴァーナがダークで陰鬱な歌詞をノイジーなギター、グランジという方法で表現したならば、フーファイはその対照的ともいえるどこまでも明るく突き抜けるような暑苦しいまでの男の世界である。

 

まずメロディー、歌詞、散りばめられたフレーズあらゆる角度から見てもとてつもなくキャッチーで、本来ロックはこうあるべきだというお手本のような1枚だ。ニルヴァーナのドラムという肩書きを抜きにしても、一つのアーティストとして世界的に評価されても全くおかしくない笑ってしまうくらい最高の出来栄えなのだ。このバンドを嫌う人は、まずロックが好きという大前提を無視しているとすら思える。ニルヴァーナの陰鬱なイメージは、デイヴというフィルターを通して前向きに明るく、生きている意味すら提示してくれているような、ポップなグランジの一つの形として昇華されている。そしてポップとはいえ、ハードさも失われておらずデイヴの吠えるようなシャウトもてんこ盛りで気づいたら拳を握ってるような、熱く燃え滾る無敵の1枚なのだ。

 

「Monkey Wrench」、「My Hero」、そして大名曲「Everlong」のように現在でもライブでは欠かせない重要な曲ばかり収録されており、ライブでは大合唱が起こるのは恒例。「My Hero」はカートのことについて歌われているという説がファンの中では有力だが、このアルバムが発売されたのはカートの死後からわずか3年。一つ一つの曲の歌詞を読み進めるが、どの文脈においてもカートという男に、点と点のように繋がってしまうのは果たして自分の過度な思い込みなのだろうか。結局本当のところはデイヴ本人にしかわからないわけだが、そんな考察をするまでもなくカートに対する壮大なレクイエムの数々としては大きな意味を成すだろう。

 

このアルバム以降、フーファイのメンバーは安定しバンドの形態として活動していく。2010年にはニルヴァーナ時代からのツアーメンバーであったパット・スメアが再び舞い戻り、2017年にはキーボードのラミ・ジャフィーが加入するなどバンドとしては現在最強のモードである。そしてグラミー賞を何度も受賞して音楽的な成功を掴み取る一方で、デイヴという男は全世界のロックリスナーから愛される兄貴分とも言えるキャラクターへと変化していく。今やアメリカのロックシーンの看板を背負うビッグスターである。

 

もしもカート・コバーンが生きていれば、デイヴ・グロールの音楽的才能をもしもリアルタイムで見ていたなら。フー・ファイターズというバンドをもしも知っていたなら。

そんなことを思いながらフーファイを聴いてしまう自分がいる。

Kid A - Radiohead

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"僕らはどうしようもない、この世界には絶望しかない、こんな時代に僕らは生きている"

 

このブログの記念すべき1枚目はこのアルバム、90年代オルタナシーンを代表するバンド、レディオヘッドの4枚目だ。

 

ちなみにレディオヘッドは筆者が最も多大な影響を受けているアーティストでございます!

 

正直なところ、こんなにも暗いアルバムを1枚目にするのもどうかと思ったが、僕の人生観を決定づけた1枚であることには変わりないし、音楽ってものをまだそんなに知らない頃にこの1枚に出会って雷に打たれたような衝撃を受けたことは未だに忘れることはない。

 

まず音の方だが、本当に暗い。どうしようもなく暗い。

ロック特有の何かに向かってがむしゃらに楽器を鳴らすようなバンドの姿は無く、ひたすらに目の前を見据えて淡々と奏でられる氷点下のシンセサイザーメインのサウンドになっている。しかし、そんな絶対零度の中でも心地よく眠ってしまうような妙な安心感や温もりは失われてはいない。僕はよくこのアルバムを子守唄代わりに寝る前にかけたりする。

 

時には「The National Anthem」での不気味なミニマリズムからのホーンセクションによるジャジーなアレンジだったり、「Treefingers」でみられるようなアンビエント、さらには映画音楽からの影響などかつてのレディオヘッドのキャリアを知っている者からすれば想像をはるかに超える大胆すぎる変貌ぶりに腰を抜かしてしまうことだろう。僕は後追い世代なのでこの感覚をリアルタイムで味わってみたかったとつくづく思ったりする。既存のオルタナティブロックというフォーマットをエレクトロニカというやり方で大幅に刷新し、"脱ロック"ということを高らかに宣言した大問題作なのである。いくら前衛志向の高いロックバンドとはいえ、ここまでの変化は頭がおかしくなったと思ってしまっても仕方がない。しかしトム・ヨークは恐れることなく、2000年という新たな時代に突入した幕開けとしてはあまりにもサプライズなサウンドを世界に知らしめた。

 

レディオヘッドを知らない人がいきなりこのアルバムから聴き始めたらそれはそれで大怪我をすることになる。というか間違った認識でこのバンドを捉えてしまうことになりかねない、このレディオヘッドというバンドにおいては1stから順に追って行くのが正しい聴き方だと僕は思う。アルバムを順に追うと本当にサウンドの変化に驚かされる、ここまで音楽性をコロコロ変えるのかと。初期は「Creep」をはじめとした純然たるギターロックバンドの側面を見ることができるし、90年代のオルタナティブっていうのは歌詞も自虐的且つ不安げでどうしようもない怒りを表現したかったということがよくわかる。

 

レディオヘッドは本来はギターロックバンドとしてキャリアをスタートして、初期にはグランジやインディーロック然とした曲も多く残しているのだが、このアルバムに至ってはギターをもはや捨てている。当時、Vo.のトム・ヨークは「ロックなんてゴミ音楽だ!」なんていう痛烈な発言をしているが、ロックバンドのようなたくさんのオーディエンスに呼びかけるようなある種の一体感のようなものには飽き飽きしていて、極めて個人的な内省的な世界観を構築し始めた。

 

その前触れは3rdアルバムである「OKコンピューター」から感じ取れてはいたが、肉体感溢れるギターロックというステージから、ひんやりとした悟りを開いたような地に足がつかない感覚を覚えるような、スピリチュアルな音楽的表現に達するのだ。もちろんバンドとしては非の打ち所がない大名盤なのだが、今までのバンド全体で賑やかに作っているような曲ではなく、トム・ヨーク個人の世界観が歌詞だけではなくメロディーという部分にまで侵食した結果がこの「Kid A」なのだと考えさせられる。レディオヘッドというバンドは変幻自在に姿を変えながら決して退化したりせず進化を続けるバンドであるということに毎回驚かされるし、理想の音楽的変化の在り方を提示している数少ないバンドだ。

 

現代のビートルズとも呼ばれる、レディオヘッドを是非聴いてみてはいかがだろうか。

まずは自己紹介!

インターネットの皆さんはじめまして!

 

単刀直入に言うとこのブログは"音楽"のことを書こうというブログです!

 

簡単にざっと自分のことを紹介すると、

東京の大学生。趣味は洋楽を聴きあさること、美味いラーメン屋探し。ルーツは90'sオルタナミュージック。ドラムとDJもたまにやったり。

 

こんな感じの私ですが、日頃音楽に触れているとその時、その瞬間に芽生えた感情ってものを言葉にしたくなるときってのがあるわけです。

そんなときにこのブログに、音楽について感じたことを思うままに書き留めて記録にしたいなっていうのがこのブログのきっかけ。

理由はいたってシンプル

 

基本洋楽のディスクレビューを不定期に更新するという形で、いい音楽を色んな方々に伝えられるツールにもなっていければいいなー!なんて思ってます。

 

こんな自己満ブログに音楽マニアの方々が遊びに来てくださったり、そうでない方もこのブログをきっかけに少しでも興味を持ってくれたら、それだけで僕は幸せです。

 

あとブログ完全に初心者なのでみなさんお手柔らかにお願いします(^^)

ではではまた次回に!