音の葉

音楽を聴いて感じたこと

Loveless - My Bloody Valentine

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"90'sオルタナに突如産み落とされた突然変異態。誕生と破滅、自らをも凍てつかせる氷河期"

 

音楽を聴く耳というのはだんだん慣れてくるもので、例えば既存のロックや同じ類のバンドを聴いてても、それは単純にカッコいいという感情が横切るだけになってくるという現象は長年の音楽リスナーであればありがちなパターンだろう。かつてのロックバンドの模倣や、それらの再解釈という表現で一つのジャンルにおいて同時多発的にブレイクしたバンドはこれまでにも数多い。実際に90年代にニルヴァーナを中心に旋風を巻き起こしたグランジなんかはポストパンクやハードロックの影響が色濃くサウンドに反映されたものであった。しかし全くの新しいサウンドとして、マイブラの記念すべき2枚目はそんなオルタナ吹き荒れる90年代に、巨大な風穴を空けてしまった。のちにシューゲイザーと名付けられるオルタナの新境地が芽吹くのである。

 

シューゲイザーとはサウンドでいえばギターに猛烈なディストーション、ボーカルには猛烈なリバーブをかけた方法論である。これらのエフェクトにより、ギターは全身を覆い尽くすような轟音を発しながらも、ボーカルは言語を聴き取れないレベルの残響感を演出する。一見すると相反するこれらの音は地に足がつかないような感覚を僕たちに与え、そこから覚える幽玄さは一種の酩酊感を感じずにはいられない。

 

一言でこのアルバムを形容するならば脳天に雷が落ちたような衝撃。音楽というルールブックがあるとすれば、それをバラバラに引き裂いてからまた寄せ集めるといったロックの再構築。幾度もの破滅と再生の繰り返しで誕生した、かつてとは全く別の次元からのニュークリーチャー。音楽版、未知との遭遇とはこのことだ。この名盤をめぐる伝説的なエピソードは数多く存在する。このアルバムは19ヶ所のスタジオで何回も多重録音され、その費用は27万ポンドを超えクリエイション・レコーズを倒産寸前に追い込んだ。ケヴィン・シールズの尋常ではない音作りのこだわりがうかがえる。

 

その音の異端さは実際にライブを体感すればわかる。僕は2018年の豊洲PITでの単独公演とソニックマニアで2回観ている。まず彼らのライブは始まる前に観客に耳栓を配布する。そしてステージには明らかにそんなに使わんだろと思わせるギターの本数、軽く10本はある。ステージを目に焼き付けながらその轟音っぷりを肌で体感したい僕はあえて耳栓を付けずに待っていた。ライブが始まるとドラムのコルムがバスドラを叩いただけでも心臓は飛び跳ね、単純な音のデカさについ身体がビクッとした。これだけでまず普通のライブじゃないことが実感できた。ケヴィンが弦をひとたび弾けば、耳の隅から隅まで純度100パーセントのマイブラサウンドで覆い尽くされ、ワンフレーズだけでもその存在の圧倒さ、歴史的瞬間を生で観れているというような非現実的感覚が押し寄せてくる。そして何よりサウンド面で驚いたのは、音源ではギターの轟音が7割くらい持っていってる曲の数々は、音源では鳴りを潜めていたベースとドラムのライブならではの強烈な音圧と張り合っていたのだ。リズム隊は極めてパンキッシュに自らを振り乱し、ケヴィンとビリンダは轟音とは対照的に静かに佇む。"静と動"の対比があのサウンドの核を生み出していると思うと、彼らは完璧なバランスで成り立っているのだと改めて感じずにはいられなかった。

 

マイブラはある意味インストゥルメンタル的なバンドであると言える。彼らの声は津波のように荒れ狂うノイズの嵐を前にすれば、明らかにかき消える寸前だ。しかしそこから儚げに零れるケヴィン・シールズとビリンダ・ブッチャーによって織り成される甘美な男女混声。まるで僕たちがノイズの大海原に呑まれ、呼吸をも封じられた感覚を覚える。これだけ音を主体的にした彼らにメッセージなど必要あるのだろうか。実際、マイブラの国内盤を買い集めても歌詞の対訳はアーティストの意向で掲載していないと書かれていることが多い。彼らにとって声は世界観構築のための音の一部にすぎず、極めて内省的なその美学はシューゲイザーの今日の在り方を決定づける指標になってしまったのだ。

 

この記事を機にマイブラにのめり込んだ人、またマイブラを好きでまだ観れてない人は是非ともライブを体感していただきたいと思う筆者でした。

というか今回の記事の半分はライブレビューになってしまった気がしなくもないが...